もしかして生きる意味とか探してる?

「探しものはなんですか?」
「見つけにくいものですか?」

その問いかけに私が出した答えは「探しものは見つからない」である。もしかしたらこの先「これだっ」と修正する可能性がないこともない。でもしばらくすれば結局「見つからない」となるだろう。

もしかしたら、日々の生活や仕事に行き詰まり「俺ってなんのために生きているんだろう」と悩んでこのページにたどりついた人がいるかもしれない。ほんと「スミマセン」ここにはあなたが求めているものはないし、むしろ悩みを深めてしまうのでヒロユキの動画でも見たほうがいい。

神様を探したけどどこにもいなかった

学校で得た知識や社会人としての経験からでは、人生の意義の答えはでない。ではどこにその答えがあるのかと言えば、私にとって行きつくところは宗教でしかなかった。仏教、キリスト教、神道と学んでいく過程で、宗教では神の存在を否定できないので、彼らが示す神は存在するものだと信じるようになった。(注:正しくは神と思い込んでいた)

今はあらゆる宗教が示す神を信じてはいないし、この人類の長い歴史の中で神の存在を証明した宗教も哲学者も、最近では科学者もいない。宗教が示す神は彼らが勝手に作り出したイメージであり物語にしかすぎない。異教徒どうしがいがみあい、戦争を始めるのがその証拠である。

また「我こそは神なり」とおっしゃる教祖を神様だと信じたからといって、その教祖が神という証明にはならないことを信者以外の人はみんな知っている。その一方でどうも神様のようなものがいる気配は感じている。(注:これも思い込みの可能性がある)

しかしあとで述べる哲学よりは宗教の方が「探しもの」を見つけるにはてっとり早い。なぜなら教義に従って生きていけばよいのだ。ある意味人生のマニュアルみたいなものである。自分で考える必要もないし、悩む必要もない。ただただ言われたことを信じれば救われる・・・はずである。

神様を信じる前に大切な五つのこと

私は宗教そのものを否定していないが誰かに勧めることもない。ここでは、私が体験したことをもとに宗教と上手につき合う方法をシェアしておきたい。

  1. 宗教は広く浅く書籍から学ぶ
    大切なことは、ある特定の宗教だけではなく、色々な宗教を普遍的に独学で学ぶことである。決して集会所や施設に近づいてはいけない。もし偶然に、自分と親和性の高い宗教から勧誘されたとしてもその場から立ち去り、他の信者および関係者に接触してはいけない。信仰とは自身と神のつながりであり、そこに第三者は存在しない。
  2. 徹底して隠れ信者になる
    一人で学び、ひとりで得たことを毎日の生活で実践するだけで大丈夫。しかし教義を学び神を信じていることを誰にも公言してはいけない。むかしの日本人は天皇を神と信じていたが、大勢の人間が一つの神を崇拝すると暴走してしまう。神を信じるために連携してはいけない。多くの人が勘違いしているが、神を信ずるために宗教も国家も必要ない。生まれながら人はだれでも神とつながっている。
  3. お金は一円も必要ない
    神様を信じるのにお布施も寄付も植福も必要ない。お経をあげてもらった、結婚式をあげた、お祓いをしてもらった場合などは、儀式というサービスを受けているので対価を支払う必要がある。しかし寄付をすることによって苦しみから救われるとか、運や悟りが拓くことなんてことは一切ない。そもそも神様はすべてを与える側なので、金銭を要求したことは一度もないし、対価がないからと罰をくだすことも決してない。そもそも神様はサイフも銀行口座も持っていない。
  4. 先祖供養は合掌するだけで完結する
    ご先祖さまの供養が足りないからと不幸になることはない。印鑑も壺も買わなくて大丈夫。これは自分自身をご先祖さまの立場に置きかえれば分かるが、自分の子供や孫の不幸を望む人はいない。もしそういう親がいるのなら、毒親なので関係を断つためにもむしろ供養をせず地獄へ落ちてもらおう。供養と金を絡めると「金は生きている家族で使え」ってご先祖さま怒るよ!
  5. 祈願は自分のために自分でするものである
    ビジネス繁栄祈願とかイングリッシュペラペラ祈願とか幸福良縁祈願みたいなものにお金を払って、誰かに祈願してもらっても効果はない。願いがかなわなったとき、彼らは返金してくれないのがその証拠である。そもそも他人に頼ることが間違いであり、毎日何度でも自分自身で祈願することが大切で、それが自然と行動につながる。

哲学書を手にして飲み屋へいこう

哲学の方からも「探しもの」について考えてみたい。哲学は、すき焼きを注文したのに牛に草を与えるところから始めなくてはいけないくらい面倒である。また哲学と宗教は境界線があいまいで、ときどき神様が現れては消えていく。

哲学を語る人は、あの難解な哲学を教祖的な雰囲気で説教してくるので、聞いている方はつい意味が分かってもいないのに理解したふりをすることになる。しだいに会話のキャッチボールが続かなくなって彼らを失望させてしまうが、意外と無害な人たちである。

ある若者がいて、彼は「人生の意義が分からない」とか「生きる意味が分からない」と悩みながら、その過程をブログに書きこんでいた。私は、彼なら彼なりの答えを見つけるかもしれないとフォローしていた。なぜなら、彼は東大哲学科を経てさらに大学院でも哲学を学んでいたからだ。しかし十年以上の時間が流れても「分からない」と吐露している。

これがある意味ショックで、私はしばらく寝込んだほどだった。あの難解な哲学を学んだ東大卒ですら人生の意義が分からないのなら、もう一般人は諦めて焼き鳥屋で一杯飲みながらグダグダしているほうがまだ救われるのだろう。

無理やりまとめてみる

結局のところ、宗教でも哲学でも学校の先生に聞いても「探しもの」は見つからない。もしどこかにその答えがあるのなら中学の授業で教わっているはずである。答えがあれば、世の中には苦しみも悲しみもないし、戦争も起きないはずである。他国を侵略して命を奪うことに意義があるのなら、殺されていくことにも意義があることになる。残念なことに宗教にも哲学にも人々を正しく導く仕組みは備わっていない。

それでも私達は毎日を暮らしている。ときどき「なんのために生まれてー♪」と疑問と同時に苛立ちのようなものが頭の中をよぎっていく。もしかしたら、探すのをやめたとき見つかることもあるかもしれない。このブログではそんな迷いをつづっていきたい。