変化を強要してくる社会の傲慢さと生きづらさ

「変わらないもの」をずっと探している。

それは漠然とした価値観のようなものであったり、何百年も続いているのになぜ始まったのか分からない伝統のようなものだったりする。しかし価値観なんて誰かに誘導されていたりするわけで、時代の流れでころころ変わる。国や地域が消滅してしまうこともふつうにあるわけだし、人がいなくなって社会がなくなれば伝統も消えていく。

宗教とか神の存在も変わらないような気がするが、伝統宗教から新興宗教が生まれるように、宗教家によって都合よく神が生まれ、教義の解釈が変えられたりしている。むしろ世の中の変化に対応できない宗教は廃れ、あるいは無神論者や異教徒を取り込むことで生き延びようとしている。

国際社会、政治、国のあり方、コミュニティー、法律、社会制度、時代、仕事、教育、ビジネス、ファッション・・・など、ありとあらゆることが常に変化している。正直なところ、そんな変化についていくことに辟易している。また、それを押しつけられることにも、変化に対応できないと世の中に取り残されると脅してくる世の中にもうんざりしている。

世の中がより良く変化していくのならよいのだけれど、実際のところ少しづつだが明らかに生きづらくなっている。つまりそれを押しつけられているってことなんだろう。そういう変化って必要なのかな。私達は幸せになろうとして、緩慢な不幸に陥っていないだろうか。

「変わらないもの」ではなくて「変えたくないもの」を

「変わらないもの」と検索すると奥華子の曲が出てきた。つい聴き入ってしまった。その「変わらないもの」って、たぶん君への想いなんだろう。その想いはずっと変わらないでほしい。たとえ変わってしまったとしてもそのときの想いは消えてなくならない気がする。

何度も聴き返していると「変わらないもの」ではなくて、「変えたくないもの」を自分なりに探していくほうが、まだ賢明に思える。

では私にとって「変えたくないもの」は何かと考えると、誰にも干渉されない日々の暮らしであり、世の中の動きに左右されない生き方ではないかと思う。

私が生まれる前に戦争があって、日本人の多くが負け戦に巻きこまれ、犠牲を強いられて死んでいった。身勝手に戦争を始めた人たちは戦場で死ぬことはなく、一方で私の祖父と叔父叔母は砲弾の中で死んでいった。祖母と母はどうにか生き延びて戦後の混乱を乗り越えたのだろうが、トラウマに苛まれ苦しんでいた。

ほんの少し前で言えば、日本は高度経済成長に浮かれていたがすぐにバブルで弾けてしまい、経済成長は失われ可処分所得は減り続け、それは現在も続いている。アメリカは経済成長はしているものの差別と格差と対立がずっと続いたままで、これから先よくなる気配はない。

もういいかげんにこんな世の中とは関わりあいたくないのだ。ささやかで穏やかな家族の暮らしを守りたいだけである。たぶんそれが私の考える「変えたくないもの」だ。

「ともだち100人できなくてもいいんだよ」

一時期、透明人間みたいな仕事をしていた。

私はネットで自営業を営んでいてクライアントは私の姿を見ることはなく、すべてのやり取りはネット上で完結していた。そのため私には「顔」がなく実体としての私を知っている人はいなかった。家から出なければ、家族以外の人にとって私は存在していない。忙しい毎日ではあったが自己完結している仕事で、これはこれで面倒な人間関係のない合理的な暮らしであった。

このときに学んだことは、人間関係はできるだけ最小化した方が穏やかに暮らしていけるということである。

私達は「友達は多ければ多いほど良い、ビジネスのつながりは多ければ多いほどよい、フォローワーは多ければ多いほど良い」と思い込んでいないだろうか。このどれもが多ければ多いほど煩わしいい状況になってないかな。無理して周りに合わせて、自分を偽って、毎日頑張っているのに時間と労力だけが削られていないかな。

必要ならば他者と協力することは厭わない。しかし「みんなと仲良くしましょう」って押しつけるのをやめてほしい。「ともだち100人できなくてもいいんだよ」って伝えたい。仲良くしてくれない人は、どんなに気をつかっても仲良くしてくれないし、ともだち100人できても名前と顔覚えられないよ。

誰かに押しつけられて自分を変える必要なんて1ミリもないし、社会の影響をうけるのも御免である。ただ「変えたくないもの」を守りたいだけである。